3000m級の山々が連なる北アルプス立山連峰。高い空に浮かぶ稜線や残雪は景観が美しいだけでなく、豊富な雪解け水が大地をうるおし、地域の食や暮らしを支えてきた富山の自慢です。
青い山々のすそ野に広がる田園風景は、まさにそんな富山を象徴する景色のひとつ。そののどかな景色をながめながら、のんびりとコーヒーを楽しむことができる老舗喫茶店をご紹介します。
富山県東部を代表する自家焙煎珈琲の名店
木造の建物の周りには木々が青々と茂り、控えめに咲く鉢植えの花が可憐な雰囲気を醸し出しています。まるでジブリ作品に出てきそうな佇まいのこの店は、富山県入善町の「ダックスファーム」。1985年創業の自家焙煎珈琲専門店です。
4世代にわたって家族で訪れる客もいるという、県東部では言わずと知れた有名店。
白い壁に木のあたたかみを感じられるナチュラルな店内。
カウンター席からは地元の常連客がマスターと談笑する明るい声が聞こえてきます。
店の一角には、寒さが厳しい季節に活躍する薪ストーブ。このスペースだけ床が一段低く、天井は吹き抜けのように高い造りになっていて、大きな窓の向こうに山や田んぼを見渡せます。
開放感のある窓をのぞき込むと、裏庭には池が広がっていてーー
アヒルやガチョウがのびのびと泳いでいます。
「ダックスファーム」という名前の通り、この店はアヒルがいるコーヒー店。
アヒルたちのおなかがすいている時間には餌をあげることもできるほか、冬季にはアヒルたちが生んだ卵を店頭で販売しています。
名水の里でゆっくり楽しむ喫茶時間
カウンターの向こうにずらりと並ぶコーヒー豆。
産地や焙煎度の違うストレートコーヒーやブレンドコーヒーなど、その数は約30種類にのぼります。
そんなコーヒーの風味を存分に引き出すのが、井戸から汲み上げる地下水。黒部川の扇状地に広がる名水の地、入善ならではのクリアな水です。
氷いっぱいのグラスに注ぎこむ…夏のアイスコーヒー
「ダックスファーム」を訪れたのは7月の蒸し暑い日。涼を求めてアイスコーヒーを注文しました。
ハンドドリップで丁寧に抽出したコーヒーをーー
はみ出るほどの氷が入ったグラスの中に一気に注ぎます。
カラカラと音を立てて氷が沈んでいき、香りたつアイスコーヒーの完成です。
アイスコーヒー 620円
ストローを差し込み、グラスと氷が奏でる涼しげな音を楽しんでいると「この音がいい、と言ってくださる人も多いんですよ」と、マスターの木本昇さんが教えてくれました。
ポイントは10角形の薄いグラス。なんでも、グラスを別のものに変えたところ、常連客から「音が違う!」とお叱りを受けたこともあるんだそう。
今では販売されていないもので、大事に使っているそうです。
「ブラックで飲む人、ストローも使わずガバっと飲む人、いやいや氷が溶けてからのほうがいいんだという人…。1杯のアイスコーヒーにも、飲む人それぞれこだわりがあるみたい」(木本さん)
年に1度、これを飲むために東京から来るという人もいるほど愛されているアイスコーヒーなんです。
淹れたての豊かな香り。深煎り豆の心地よい苦みの中に、ほんのわずかに感じる酸味。
じんわりと汗ばんだ体にスーッとコーヒーが染み込んでいくようで、勢いよく飲み干したくなります。
せっかくなので透明感のある音を楽しみながら、地元の老舗菓子店のものというチョコレートブランデーケーキと一緒にゆっくりと味わいました。
入善特産のスイカでつくるフレッシュジュース
生スイカジュース 700円
※7月後半~8月半ばまでの期間限定
店の主役はコーヒーですが、生バナナミルクやホイップクリームが浮かんだメロンソーダといったドリンクもあって、小さな子供も一緒にくつろげます。
夏の名物は「生スイカジュース」。
入善町と言えばスイカの名産地。大きさが足りず惜しくも「入善ジャンボスイカ」の規格を満たせなかったものの、味は一級品。そんなスイカをたっぷり使ったフレッシュジュースです。
一口サイズにカットしたスイカも一緒に楽しめます。シャクシャクという心地よい歯触りに、噛んだ瞬間ジュワっと広がるみずみずしさ。
一方、ジュースのほうは濃厚なうま味をダイレクトに味わえて、それでいて青臭さのない爽やかな風味。同じスイカのはずなのに、そのまま食べるのとジュースで飲むのとでは不思議と味わいが異なるんです。
ちなみに、残った皮の部分は細かく刻んでアヒルたちのエサになるんだそう。
なんとも無駄のない、サスティナブルなメニューです。
アヒルのいる田園喫茶
それにしても、なぜこのお店にはアヒルがいるんでしょう?
「それは一種のノスタルジーでしょうね」と木本さん。
ちょうどこの日誕生日を迎えたそうで「いくつに見えますか?」なんてお茶目な質問をされました。おしゃべり好きでとても若々しい印象なので60代くらいかと思いきや、御年83歳だそう。
「山があって田んぼがあって、この風景は昔からほとんど変わらない。道路はちょっと増えましたけど。あとは昔は沢杉というか、雑木林が多かったんですね」(昇さん)
入善で生まれ育った木本さん。小さなころは沢杉のある水辺が遊び場だったそうで、そこにはアヒルが放し飼いになっていたそう。
そんな心の原風景を、木造の喫茶店の世界でよみがえらせたのでしょうか。初めて訪れたのにどこか懐かしさを感じる、素朴でのどかな世界観が広がっています。
自家焙煎コーヒーが珍しかった時代から…
「よいコーヒー」へのこだわり
“でもしか”喫茶
東京で塾講師をしていたという木本さんが富山に戻って「ダックスファーム」を開いたのは、40歳を過ぎたころ。
「当時は“でもしか喫茶”という言葉がありましてね。『仕事を辞めて喫茶店“でも”やるか』『喫茶店くらい“しか”できない』という意味です。私もそのクチで、『地元に帰ってコーヒー屋やってもいいか』なんて」(昇さん)
開業に向けて東京の喫茶店を巡った木本さんでしたが、コーヒーを「おいしい」と感じることはなかったそうです。
当時の喫茶店は、焙煎業者が大量に仕入れた豆を使うのが普通。焙煎から時間が経った豆は風味が劣化しており、さらに朝に大量に作り置きしたコーヒーをあたためなおして提供する…なんてことも。
現在では珍しくなくなった、風味にこだわった自家焙煎コーヒーやスペシャルティコーヒーは、当時は非常に稀有なものでした。
そんな中で出会ったのが、コーヒー界のパイオニアとも称される東京下町の有名店「カフェ・バッハ」でした。
「師匠」との出会い
「バッハのある場所が、またひどいところでね(笑)。当時は日雇い労働者の多い街で、朝から一升瓶を抱えている人なんかもいて。『こんなところでコーヒー?』なんて思ったけど、これがおいしかったんです」(木本さん)
バッハのマスターは、コーヒーへの熱意にあふれた人で研究熱心。単身で海外に渡り、コーヒー豆の生産現場を回り、独自の輸入ルートを開拓するほどだったそう。
自家焙煎の技法を高め、「よいコーヒーとは何か?」「何のためにコーヒーを出すのか?」という哲学的な視点からもアプローチを続け、そのうちに全国を回って有名ホテルや喫茶店などで指導するほどになったんだとか。
何度か訪れるうちに、木本さんは「コーヒー屋をやらないか?」とバッハのマスターの方から誘われました。
「バッハのマスターに『田舎に帰ってコーヒー屋をやろうと思ってる』と伝えたら『いいんじゃないか、できるよ』って。あとから入善に来た時には『本当に田んぼしかない…』って驚かれましたが(笑)」(木本さん)
「よいコーヒー」とはなにか
そんな“師匠”から教わった大切な技法のひとつが「ハンドピック」。
焙煎の前と後の2回、「欠点豆」を手作業で徹底的に取り除くという作業です。
「欠点豆」とは虫食い豆やカビの生えた豆など、コーヒーの風味に影響を与える豆のこと。中には小石が紛れ込んでいることもあるんだとか。そんな欠点豆や不純物を丁寧に取り除くことで、コーヒーの雑味やえぐみが少なくなり、安定した味となるそうです。
“師匠”の教えはもうひとつ。それは「よいコーヒーとは体によいコーヒー」であるという考え方。
悪い豆を取り除く、できたてを提供する…飲んで具合が悪くならないものがよいコーヒーなのだそう。
「最初はプレハブ小屋から始めたんです。2年後に今のこの店を建てた。こんな田舎でコーヒー屋…なんて思うかもしれないけど、真面目にやってたら、お客さんも真面目に向き合ってくれるんですね」と木本さん。
コーヒーへの真摯な思い、常連客のエピソード、富山の魅力、少子化問題などなど…話が尽きることはありません。
2代目の木本 亙さんは「マスター、能書きが長いでしょ?塾講師やってたからさ…放っておくと、いつまでもしゃべってるんだから」なんて苦笑い。
あたたかみのある木造の喫茶店に、おしゃべり好きの明るいマスターたち。
常連客はもちろん、初めて訪れる人にとっても懐かしくほっとするような田園喫茶で、香り高いコーヒーを楽しんでみてはいかがでしょうか。
記事編集:nan-nan編集部



